桂藏寺の寺伝では、慶長19年(1614年)松島瑞巌寺の前身円福寺80世廣天青和尚(こうてんせいおしょう)を開創としています。廣天青和尚が当寺に来られた時、荒廃した本堂に桂の木で出来た地蔵菩薩を本尊として祀られ、日月の両天子が鎮守であったため、寺号を「桂藏寺」、山号を「日月山」と称し、小規模ながら復興させ天台宗であった桂藏寺を臨済宗へ改宗しました。
 
天台宗であった時代の記録がなく、開祖が誰であったか、この地に創建された由縁が未だに不明であり、瑞巌寺80世の廣天青和尚を開山としたことが、現在の本堂に掲げている江戸時代の寺伝に記されています。

その後、短期間で瑞巌寺91世義山和尚(ぎざんおしょう)が住し、更に月仙不及(げっせんふぎゅう)、養雲慧発(ようんえはつ)、湖山東竹(こざんとうちく)が住しており、また、京都花園にある大本山妙心寺を三度住した瑞巌寺105世天嶺性空(てんれいしょうくう)禅師の法を受け継がれた實禪祖柏(じつぜんそはく)禅師が師と共に、心血を注いで殿堂を新たにし、立派に復興されました。
 
この功績を称え、天嶺性空禅師を中興開山とし、松島瑞巌寺末寺58ヶ寺の中で最大の16ヶ寺が属する「通玄派」の法系を受け、その中でも「通玄四哲(つうげんしてつ)」として現在に至ります。




  
主君伊達政宗公の命を受けて、月の浦から出航し、ローマに向かわれた「慶長使節団」の支倉常長の孫、支倉常信と、ひ孫である支倉常盛の川内支倉氏の墓所がございます。
 
支倉常信は祖君常長の墓前に石燈籠を献じ、切支丹弾圧によって衰退した支倉家を復興させた方でもあります。
支倉家系図書常信の条に「貞享2年2月20日卒、年48、葬黒川郡大谷郷川内桂藏寺、法名花岳宗香信士」と記載されています。
 
桂藏寺がある川内地区は、昔、川内支倉家の領地であったとも伝えられ、墓所には家族や親族が埋葬されていることが墓石によって判明しております。
 
現在でも、支倉家遠縁の子孫が墓守として墓所を護られています。






携帯電話より花園墓地ウェブサイトにアクセスできます。